カテゴリ: 望郷

就職はどんな会社でも、地方でも、息が詰まるような実家から離れられれば、どこでもよかった。
大学で海洋学を真面目に学んだから、できれば船舶とか海洋関連の会社に入り、しかも府中の自宅から通えない場所に勤められれば申し分ない。
仕事観、志なんてものは全く持ち合わせていなかった。
 
入社試験の会場に居合わせた応募者は、果たして何人が入社したのか、入社式当日そんなことを考えながら神田駅から三信船舶本社に向って歩を進めた。
本社1階の受付を訪ねると、受付の女性が応接室に案内してくれた。
応接室の扉を開けると、太ったオヤジ達が4人も居並んでいる。
「いらっしゃい」揃って一礼された。
訳も分からず一礼を返すと、社長がおもむろに語り出した。
「????」
鳩が豆鉄砲とはこういう状況を言うのだろう。
何が起こったか全く理解できない。
呆然としていると、続いて専務が書類を持って「辞令、貴殿を足立工場技術部に配属する」「ハァ・・・・・」偉い方4人に握手を求められ、肩を叩かれ、聞こえた言葉「以上で入社式を終わります」「えっ?な何に~。これ入社式だったの~」
つまり、同期入社は誰も居ない。私たった一人だけ。
応接室で辞令を渡されて、神田から足立区五反野の工場へ。 
「はい、頑張ってネ」で送り出されました。
何だか脱力感に包まれながら、神田から足立の工場へ向った。

入社して3ヶ月間は現場研修。初めの1ヶ月は加工現場。旋盤・フライス盤・研削盤・ボール盤といろんな機械を使わされた。
多軸ボール盤を使っていたらアルミの切粉がドリルに巻きついて目障りだからと、手を伸ばして引きちぎろうとしたら、切粉に手を引っ張られてドリルに巻き込まれ、指先を裂いてしまった。加工場の班長には、「くれぐれも素手で切粉を取るな」と言われていたのに、言い付けを守らないと叱られた。
 
2ヶ月目は組立現場。船舶用の照明具や非常ベル、探照灯などを組み立てる職場だ。
照明具の銅接点をカシメ機で圧接する作業は、小さな銅薄板の接点を指でつまんで灯具の中に置き、足元のスイッチを踏むと、カシメ機が作動して圧接が始まる。
ボーとしていたのだろう。銅板接点を指でつまんでいる最中に足元のスイッチを踏んでしまったから大変だ。
銅板接点をつまんだ指の上にカシメ機が降りてきて指ごとカシメが始まってしまった。
声も出せず悶絶している様子を遠目に見つけた班長が飛んできて、足元のスイッチを解除してくれた。
左の中指の爪に丸い穴が開いて、包帯巻きになってしまった。班長からはボーとするなと叱られた。
 
3ヶ月目は検査場の仕事。
船舶用発電機の試験を済ませ、発電機のシャフトに防錆剤を塗っていたところ、シャフトの溝で指先を鍵裂きしてしまった。
今までにない大怪我で、油に塗れた指は縫合出来ないと言われ、病院から職場に戻ってシンナーで傷口を洗うことになった。
シンナー液に触れた右手は想像を絶する激痛でメマイがした。
治療を終えて戻ったら、検査場の班長始め職場の全員に笑われてしまった。
 
どこの職場に行っても何かのドジを踏む私は、一挙に工場内に噂が広がって、持ち前の明るさも手伝って、先輩方から大いに可愛がられた。

月に一度、本社から社長、専務、常務が工場にやってきて、全体の朝礼が行われる。
この日、社長が「全員最低1件の業務改善か商品の提案などを提出すること」と訓示した。
多くの社員は業務改善提案だったが、私は新製品の提案を出した。
翌月の全体朝礼で、前月の提案について報告があり、何と私の提案が社長賞を頂いた。
賞金5万円。更に朝礼後、応接室に呼び出され、「君の提案製品を商品化しなさい」と指令された。まさか自分の提案がこんな形になるとは思っていなかったが、以来、私は小さな部屋をもらい、2年間に渡って上司もなく、配属部署もない社長直属の研究員となって、会社の新製品を次々に開発して行った。
 
無接点型非常ベルはJIS規格の連続52時間稼動の規準を大きく上回る1200時間の連続稼働を達成した。
船舶用航海灯5種など新製品を開発して行った。
ちなみに頂いた社長賞5万円はその日のうちに先輩達との飲み代に消えてしまった。

三信船舶での仕事は楽しかった。
組織に配属されない自由な立場で、テーマさえ決めてしまえば開発に没頭することができた。
失敗の連続でも、そこから学ぶことが沢山あって、これこそ技術者冥利に尽きる仕事だった。
ただ、職場の先輩達は安月給に嘆いて、会社への不満ばかりを聞かされていた。
初任給102,000円、2年後で120,000円は、大卒者の相場では若干低かったが、10年先輩の給料を聞けば、そこから給与はほとんど上がらないという。
32歳の先輩が16万円の給料と聞いて、一挙に将来の不安を感じた。
このとき職場に好きな女の子がいて、いろいろな所以があって結婚することにした。
しかし24歳の私の結婚など、あの気性が激しい親父が承諾するわけがない。兄貴が28歳のとき、結婚する前にどれほどオヤジが酷い仕打ちを兄貴にしたか、その光景が目に焼きついているから尚更だった。
「ここはオヤジの承諾なんか取っていられない。いっそ既成事実を作って有無もない状況にしてしまおう」と決意して子供を作ってしまった。
挙句はオヤジに勘当されてしまい、以来3年間は実家の出入りを禁じられた。
 
会社や職場の人達にも気付かれないまま、職場の人と駆け落ち結婚する経緯もあり、会社に居づらくなって退職届けを提出した。
工場長、技術部長はおろか、社長や専務までが慰留に動いた。退職の理由を尋ねられても真実を語ることができず、沈黙していたら「給料の不満なら何とかする」とまで言い出したが、まさか「駆け落ち」のためとは言えず、黙って会社を後にした。
昭和533月のことである。

三信船舶での開発業務で、新たな商品を生み出す開発という仕事に興味を持ったことで、転職先は設計専門会社に決めていた。
リクルートが発刊していた「就職情報」を元に、機械の設計を専門にやっている会社を探した。
給料と勤務地と職務内容で7社の設計専門会社をリストアップし、上位から順番に面接に行くことにした。
何しろ貯金は1円も無いし、5ヵ月後には子供も生まれてくる。
ノンビリ会社選びという訳にはいかない。
できれば2~3日で7社を回り、採用してくれる先を決めなくてはいけないから、三信船舶で描いた図面を持参して実技試験は免除してもらおうと考えた。
初めに訪ねた会社は横浜線淵野辺駅にあった㈲アルプス技研だ。
課長の面接を受け、続いて実技試験の案内をされたとき、「実技試験の時間が無いので参考に図面を持参しました。今日、別の設計会社にも面接に行くので、この場で採否を決めて頂けないなら辞退します」と急いた。
課長は慌てて、たまたま在社していた社長に相談に行った。
「一次面接と実技試験をパスした人が社長の二次面接を受けて採否を決定する」という説明を受けた後おもむろに社長が登場した。
いろいろ聞かれた上、「では君を採用します。入社日は325日です」 
採用された。
7社の設計専門会社の中で、一番給料が良かった会社だ。
就職情報の求人条件によれば、給料は18万円~35万円だから、最低の18万円だって三信船舶時代の1.5倍だ。
喜び勇んで我家に帰った。
「就職先が決まったぞ。しかも一番給料が高い会社だ。給料は18万円だ」お腹を大きくした妻が満面の笑顔で喜んでくれた。

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