2019年07月

setubi


日産自動車が1万2千百人以上の人員と余剰設備を整理する記事が挙がっている。
余剰な設備と人員を整理して事業の体制を組み直すらしい。

この経営改善の根底にあるのは「販売不振」だ。
車が売れ続けている時は、設備を増強し陣容を拡大するが、売れなくなれば使わない設備は置いておくだけで無駄だし、仕事が無い人も遊ばせておいたら“金食い虫”だから無駄になる。

売れている時は加勢に増強拡大し、売れなくなったら捨てるという、非常にクールで人情とか温かみを無視した経営手法は大企業とか上場会社だから出来る経営だ。
会社が株主のもので、株主から委任された経営者は、株主のために株主を見て経営をするから、資本の原理からすれば、こうした経営は至極当然で文句のつけようがない。

これを零細企業の経営者の目線で見ると、整理された人達はどうやってその後の生活を組み立てるのだろうか?という懸念が頭をよぎり、クールに人員整理を発動できない。
零細企業だって、会社法的にみれば会社は株主のものだけど、集う社員さん達の生計の糧になる会社だから、売れている時に雇い入れた人を売れなくなったからと言ってクビにするという訳には行かないと思ってしまう。

合理性の大手企業、情実の零細企業ってところだろう。


売れて業績が拡大路線に乗って、設備と陣容を増強拡大させるとき、「もしも売れなくなった時に余剰な社員さんのクビを切り出すことになるが、それでいいと思えるなら一気に拡大路線を走れ」と零細企業の経営者は自問自答しなくちゃいけない。

事業規模を拡大することが「是」で、資金繰りにも困らず世間相場よりチョットだけましな給与体制のボチボチ経営は「非」のような見方が違うんじゃないかと思う。

1万2千百人に支払う給与だけで400億円以上の合理化だから、零細企業のオヤジには計りようがない経営判断なのだろう。

 




jyurin


趣味の野生キノコ採取は、もう30年にもなるから、それなりに知識と経験を積めた。
登山と違って、山道を歩くことはないので、道無き場所を歩き回るから、山で迷ったことも幾度かある。

初めて山で迷ったときにはパニックに陥り、焦りと恐怖で怖い経験をした。
無用に樹林を歩き回ったので著しく喉が渇き、携行した飲料はあっという間に底を突いた。
何とか戻ることが出来た時、一連の出来事を思い返し、恐怖の体験から教訓を得た。

焦らず、現状を冷静に把握して、帰還の方策を探り出し、無理せずにコツコツと踏み入った経路の記憶場所まで戻ればいいと知った。

何しろキノコ散策は足元を見て歩くから、周りの景色の記憶が無い。
山登りに比べて、キノコ採りの人が山で遭難することが多い所以だ。

幾度かの迷いの出来事も、初めの経験から得た教訓で、然程の苦労をすることなく乗り切ることができるようになった。
若かったころの往復6時間超を掛けての深山散策は、歳と共に出来なくなったから、近年は手軽な散策になって危険とは無縁のキノコ採りになった。


商売経営は深山散策に似たところがある。
未知の場所(マーケット)に踏み込んで、手付かずの市場で収穫を得るという活動は似ている。
深山に分け入るほど迷い易いから、幾ら収穫の夢が膨らんでも、迷ったら無理して進まずに元に引き返すことが肝要だ。

「どうも企てた経路と様子が違うなぁ」と感じたら、事業を元に戻すことが必要だ。
「こんなはずじゃない」と冷静さを欠いて突き進むと、取り返しがつかない迷子になる。




 

nakigao

大人が大衆の面前で泣く姿は、見ていて見苦しい。

爆笑映像で笑いすぎて涙が止まらないことや、死別の悲しみで涙を流すことはあるが、謝罪や反省や失敗で、大の男が人前で泣くのはみっともない。

涙が出るほど悔しくて、申し訳なくて泣くなら、人目を避けて、ひっそりと泣けばいい。
布団の潜って、上掛け布団を噛み、声を殺して泣けばいいのだ。


特に、経営トップが謝罪の場で、涙を流すのは、覚悟が見られずに、見ていて情けない。
会社を代表するトップなら、毅然として面前で立ち振る舞う姿が当たり前だ。

仕事で失敗した社員が、頭を下げ、時に涙を流して詫びる姿を見ることがある。
泣くなら失敗の結末を迎えなければいいのに、手順が策略が未熟だから、失敗の経路から抜けられずに結果を迎えることになる。
眼前の仕事ばかりに目が行って、先々の見通しや潮流に気を配らないから失敗の起点を見失う。

策略と手順を万全に練って、一つ一つの仕事に全力で取り組み、そういう仕事の積み重ねで結果を待って、それでも失敗の結末を迎えたなら、清々しい気持ちで結果を迎え入れることが出来る。
策や手順が未熟で、なあなあの仕事を重ね、結果を楽観するから、泣きを見るのだ。

大の男が人前で泣くような仕事をするんじゃねぇよ。





 

ビジネス

ビジネスをやっていると、同じビジネスマンなのに、話がかみ合わないジレンマを経験することがある。
そんなジレンマに悩んだ末に、「仕事の重心」などという考えに至り、未熟なビジネスマンには経験が少ないから、「仕事の重心」が分からずに無駄に見当違いの手順を組み立てるという理屈を説いた。

また最近になって、似たようなジレンマに襲われ、深く考え込んでいたら、吉本芸能の芸人闇営業問題で、ビートたけし氏が変わった視点で事件を切り込んでいる記事に目が止まった。

「芸人は猿回しの猿で、猿が客に噛みついたからといって、猿が直接に客に謝ることはない。飼い主がキチンと謝罪をするのが筋だ」

こういう見方は「レベルが違うなぁ~」と感心する。

世界のトップアスリートと国の選抜選手が、同じ競技者だからといって一括りにしたらいけない。
世界のトップと国体選手では、見える景色や意識が別次元に違う。

ビジネス1年生と経営者が同じビジネスマンだからといって一括りにはできない。
仕事をして成果を出し、報酬と受ける点では、同じプロかもしれないが、見えている景色もビジネス意識も別次元に違っている。

経営者と言っても、そこには雲泥の差があって、経営者も一括りにはできない。

この意識の差は、今まで説いてきた自説の「仕事の重心」とは違った領域の話しだ。

仕事観というか、「自分の仕事とはどうあるべきか」という目標意識や使命感を四六時中考えて、そういう観念が明確に持てた人が、組織や業界を牽引できるのだろう。

もっと高いレベルで、仕事観=人生というものを考え続けないといけないと思う。




 

kurohba

人事考課をするようになって、35年くらいになるだろうか。
人が人を査定評価するのだから、いくら合理的に客観的な査定に努めようと思っても、主観が介在するから難しい仕事だ。

そもそも、仕事の査定がテストの点数のように数字だけで判別できるなら良いが、事務的な仕事・開発の仕事・企画の仕事・マネジメントの仕事といった数字で表すことが出来ない仕事になると、査定の仕事は主観に頼ることになる。

数字で測ることが出来る営業や販売の仕事なら成績が反映されて、客観的な評価になり易いが、期間成績で5倍の差があったら、給与も5倍差を付けられるかというと、そういうわけに行かない。
この辺が矛盾しているから、その矛盾をどれくらい合理的に整理するかが必要だ。

部門から上がってくる人事考課表を審査すると、部門長の主観が介在していることがあって、好きな部下の査定は良く、嫌いな部下の査定が悪いことがある。
「何だ!この査定は・・・!」と叱って書類を突き返すと、次は一律のパーセント査定で個々の仕事の評価は査定に組み込まれなくなる。

人の生活を左右する給与の査定だから、真剣に考課に取り組んで欲しいのだが、そういった事の重要性が軽んじられるから苛立ってしまう。


自身も査定を受ける立場だった時代、年間で10日すら休みを取れないほど働き、台湾や韓国へは日帰り出張で、収益では会社の2割を担っていたが、社長との年収差は1/10、部下の部長より少なく、課長よりやや多い程度で、考課の憂いは嫌というほど味わった経験がある。


多くは6割に一律パーセント、成績が3割、1割に勤怠や意欲や協調性が反映される制度を施行するが、それでも仕上がった考課表には疑問が着いて回る。

これからの時代、普通の仕事ぶりの人は世間相場程度で、企業活動への貢献度が高い人には破格の報酬を与える制度が必要なのではないかと思う。
35歳で年収400万円の人と同年齢で年収1200万円の社員が、同じ職場で活動するのが当たり前になる制度で良いのではないかと思う。

一方は普通に勤めを果たし、他方はビジネスをドラスティックに展開して組織を牽引する。
どんな仕事をやっても大差ないことが、むしろ“不公平”なのだと思う。





 

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